昭和56年4月16日 朝の御理解 入力者松本正宏
御理解第六十二節 「昔から、人もよかれわれもよかれ、人よりわれがなおよかれというておるが、神信心もしても、わが身の上のおかげを受けて、後に人を助けてやれ。神信心も手習いも同じこと、一段一段進んでゆくのじゃ。にわかに先生にはなれぬぞ。」
今朝のご祈念に頂きました事は、人間の助かりの原点と言うことを頂きました。人間が助かっていく、為にはそこの根本理念がいると。根本理念と。人間の助かりの理念と言う事はどう言うことだろう。せんだってから、ここの信徒大会が、行なわれました。大変盛大な信徒大会でしたが、会のテーマが合楽理念の未来像を求めてと。合楽理念が今日の御理解から言うと、人間の助かり、その原点になるものだと。合楽理念に基づく助かりをいよいよ信じ、いよいよその事の実験実証。その日々が私共がおかげを受けてと言うことになるのじゃないでしょうか。そういう絶対のもの、間違いのないもの、そういう信心を進めていけばそれこそ、教祖様のお言葉を借りるなら、世界を包みまわすことも出来ること。そういう道に不思議に御縁を頂いたという事をまずお礼を申させて頂けれる信心。そして日々の中に合楽理念に基づく助かり。まず、わが身におかげを受けて後に人を助けてやれというのは、そういう間違いのない手立てをお互いが身に付けた時、分かった時だと思うです。ね。
いよいよもって、合楽理念の実験実証が要ることになります。お取次を頂いて、医者も見放したとか病気が助かったとか、ね、こういう、金銭の送りあわせを頂いたとか、まあ、もらい水的なおかげから、もちろんそういうおかげも合楽理念に基づくおかげでなからなければならない。いうならば、懇々と湧き出る、水のようなおかげを頂かなければならない。そういうおかげを頂くためには、ね、それこそ、ここにもござますように、一遍に先生になる事は出来ない。信心も手習いも同じ事。その間違いのない下敷きになる信心。いうならば私の信心を皆さんが下敷きにして、私は教祖金光大神の信心を下敷きにして、段々稽古をさせて頂いて、今日の合楽である。だからいうならば、ね、私の信心のまあ、習わせてもらい、そこから合楽で、頂けているおかげと、合楽で目指しておるところの信心、目指し、目標というものをたがえず間違えず、進めて行くと言うこと。その手立てが分かったと言う時に私はもうあなたは助かったと言うことになるのじゃないでしょうか。そりゃお取次を頂いてこげなおかげを頂いた、あげなおかげを頂いたと、それも確かに助かりには違いないですけれども、そういう例えばおかげを頂くと言う事の
と言うことと同時に、人間の助かりというその原点、人間は万物の霊長であるから、万物をみて道理にあう信心と。合楽理念をひも解くと道理に合わないと言うことがない。お話を頂けば頂くほど、分かれば分かるほど、なるほどなるほど、人間が助かる為にはどうでも、この宗教この合楽理念によるほかにないといういうならば確固たる、信心をね、頂きそれを分かり、これは限りがない事でございますから本当の助かりと言うことにおいてはいわゆる手習いも同じですから、なんぼ手習いをしても手習いをしてもね、これで良い、これで満足と言う事はない。もう限りない信心による、真の助かりというものを頂いていく。ね。昨夜も、前夜祭のあとに引き続いて富久信会でしたから、昨日は先生方がみんな準備で出ておられませんでしたから、高橋さんの司会で私は帰り道道に、文男先生と久富茂雄さんと三人で話した事でしたが、今日の高橋さんの司会は素晴らしかったね。もうとにかく力強かった。もういうならば、おかげを確信してのなるほど、いうならば、商売の上には非常に難儀なところを通っておられるけれども、ね、必ずおかげになる。それを自分の生き方の中の、その前後に神様の生き生きとした働きを見、感じながら、信心を進めておると。ああいう素晴らしい何か力のある高橋さんの話を聞いたのは私初めてであった。どっちかというと、自分が言われるように話は苦手だと。もう問題は自分の日に日に生きていく生き様というものがその司会の端々に感じさせて頂いた。今朝も私もその事を大変ありがたいと思うておったから、その事をお礼を申し上げようと思うた途端にカチッとお勇みがあったですね。私がご祈念に入ったすぐの頃。ね。結局信心にはあの信心の勢い、ね、神様を絶対な者としての勢いというものが必要だということが分かります。
ついこの頃ご本部参拝の帰りに、丁度宮崎の渡辺さんも丁度前にこう座られた。高橋さんが丁度修行中じゃろうと言う事をやっぱ聞かれておりますから、渡辺さんも大変な修行のところを通っておられる。それで高橋さん今のあなたのまあご修行のお話しを聞かせてくださいと、高橋さんに求められるところに、高橋さんが言われる事に、渡辺さんちょと待って下さいと。私が、おかげを頂いてから話しますと。もうがっかりしたという意味の御理解がその明くる朝電話であった。で、私はもうほんなこて馬鹿じゃあるのと私は思いました。自分が今頂いておる修行のところを話したらよいじゃないかと
それに、おかげを頂いたところの話なら、対して値打ちはなか。おかげを頂く為のいよいよ、信心を求めに求めて行っておるその、その話から、その姿こそ尊いのであり、ありがたいのである。例えば昨日司会をなさった、ああいう話をもし難儀な人が聞いたら、もうそれこそ、もうそれこそ、喉の渇いて溜まらん人に水を与えるくらいないうなら元気を与える事だろうと私は、思うた。ね。信心にはねそういういうならば神様をどういう中にあっても感じられる手立てが合楽理念に説いてあるです。もう早速、神様の働きて素晴らしいという、その実感が頂けれるような働きを頂きながら、それをいうならば現しながら
、ね、そしていうなら私がおかげを頂く事を確信して、私がおかげを頂かなければ、頂く者はいないという位な信心を頂いて、ね、私は、まず、わが身におかげを頂いて助かるというそういう事だと思うのです。確信を持って人に話伝えられるという事。ね。だからあの迫力をもって人に伝えられるなら難儀な人は沢山あるのですから、ね、それに、私は感動的お導きも感動的ないうならば、ご信心も人に伝えて行く事が出来る。ね。おかげを頂いてまあ大変難儀をしましたけれども、こげなおかげを頂いたという話では対した花胃ではないです。
いうならば、世界の平和も、ね、世界総氏子身の上安全も、まずは一人一人が、ね、金光大神のお取次ぎによって、金光大神の御教えによって助からなければならない。助かると言う事は、ね、いうなら難儀から開放されたと、病気が治った、金銭のお繰り合わせを頂いたと言う事も助かりなのですけれども、その原点に立ち返って、助かりの原点が自分にこれに頂けた時、ね、始めて合楽理念の未来像というものが、大変な輝かしいものになってくると私は思うのです。ね。それは世界総氏子、いわゆる世界に和賀心が広がって行くという事は大変な事でしょ。ね。和賀心で世界を包みまわすというようあ、教祖様が百年前に仰っておれれるという事でもです、それは、とても千年万年かかるかも知れんのです。いやそれでもまだ、出来ないかも知れませんけれども、そういう、信心を私共一人一人が頂いて、先ずは自分自身の助かりという事は本当の人間の助かりの原点に立ちかえった時そしてそういういうならば、助かりの理念が人に伝えられるという事がね、自分が助かって人を助けてやれと言う事はそういう事だと思うのですよ。ね。自分が助からずして、人を助ける事は出来ません。ね。というて、助かると言う事がはあ金も出来た、あれもこれも、成就した。いかにもそれが、助かりのようであるけれども、それは助かりにはつながらない。どんなに金があっても、物があってもどういう素晴らしいいうなら安気安穏の生活が出来たとしても、私はまず自分自身の心が助かる。いやこの生き方になれば助かられるという確信を持たせて頂いた時こそ、始めて私共が助かりと言う事になり、今日私が頂いた、助かりの原点に私が立った時に、もうあなたが助かった。ね。その助かりの勢いをいうならば人にも伝えていく。これのいうなら垢抜けしていく、これがいよいよ深く広くなっていくという事においては、限りがない。それには、信心もやはり手習いも同じ事というような稽古だからであります。ね。どうぞ、銘々のそういう人間の助かりの原点というものを感じておるかという事を一つ思うて見てください。
どうぞ